インチョンから福島に来ていたおばちゃん

半年ほど前、私の韓国好きを知っている友人が「近くに韓国料理のお店があるわよ」と教えてくれました。そのお店の雰囲気が気にいり、家族や友人とよく足を運ぶようになりました。
経営者のママさんは、高校入試を控えた子供の塾の送り迎えに忙しい人でした。厨房は、ほとんど日本語が話せない68歳のおばちゃんにまかされていました。「近くに住んでいるから電話をくれればすぐに来ますよ」と、おばちゃんに名刺を渡したのですが、その後二度電話がありました。
最初の電話は、「ママ(私のことをこう呼びました)寂しいよ」と沈んだ声でした。デパートでおばちゃんへのプレゼントに割烹着を包んでもらっていたところでした。急いでお店に行くと、厨房に一人ポツンと寂しそうに佇んでいました。お客様がなく、話し相手もいなかったのです。私は少し前に包んでもらった割烹着を渡しました。するとおばちゃんは、大粒の涙をポロポロ流しながら「ママ、今日、私の誕生日です」「さっき韓国の息子から電話がありました」「息子がオンマに会いたいと言うんです」「私寂しいです」「夫は体が弱く、30を過ぎた息子はまだ大学生だから頑張って働かなくてはならないのよ」「帰りたいけど、帰れない」。いろいろと、寂しい胸のうちを話してくれました。私は一緒に涙を流して、話を聞いてあげることしかできませんでした。
そのあと私は、「福韓(ふくかん)」のメンバーを何回かお店に連れて行きました。忙しくしている時が一番いいと、おばちゃんはいつも言っていました。その後しばらく、私は何となく忙しくてお店から足が遠のいていました。
3月の初め、ビックパレットのイベントに使うピビンパを作らなくてはなりませんでした。お店のおばちゃんに、ピビンパに入れるコチュジャンの調味方法を教えてもらいました。おかげで、200食のピビンパを売り尽くすことに成功したと思っています。
ビックパレットに行く2〜3日前におばちゃんに会ったのが、日本では最後になってしまいました。私も忙しく、しばらくお店に行けなかったのです。ある日、車の中で携帯電話が鳴りました。おばちゃんでした。「ママ、私病気で入院して韓国に帰る」「今、東京の友達の所にいる」「ママ、ありがとう」。何を言われたのか、その時は理解できず、お店に車を走らせていました。お店に行くと、はじめて見る中国人の若い子がいました。話が通じないので経営者のママさんに電話すると、おばちゃんは2週間前脳梗塞で倒れ入院して歩けるようになったので、韓国に帰すところだと話してくれました。
それから数日後、私も韓国に行く予定だと話すと、ぜひ韓国でおばちゃんに会ってくれと言われました。私が出発する前日に、病み上がりのおばさんとお店のママさんは帰国していました。私が仁川に着くとママさんだけが空港に来ていました。ママさんはおばちゃんを夫と息子のいる家に連れて行き、何日か泊る予定だったのですが、あまりに貧しく、布団も無いので食料を買って置いてきたと話してくれました。よく考えて私も会うのをやめました。ママさんは私達の泊ったホテルに泊ることにしました。
すべて面倒を見てくれたママさんは、まさに情に厚い韓国的な人だと尊敬しています。今まで私はとても裕福で成功した韓国人しか知りませんでした。何の心配も無く暮らして行ける今の自分に感謝しなければいけないと思いました。一所懸命家族のために働いていたおばちゃんは、私の母と同じ歳でした。